「……おい、」
「待って、レオナさん! 言い訳させて!」
ラギーが寮に帰ってきて早々、談話室の真ん中でレオナとが生徒から視線を浴びていた。
レオナもも生徒から注目を浴びることに慣れているのか全く気にした様子はなく、ラギーの姿を見かけた生徒が目で助けを乞うている。それが一つや二つならまだしも、寮長であるレオナをボスとする寮生の大半がラギーに目を向けているのだから、落ち着く筈がない。
「レオナさんもさんも、なァーにして、…ん? 何スかこの匂い?」
仕方なしとばかりにラギーが二人に近付くと、ふわりとレオナとから甘い匂いがラギーの鼻に届いた。獣人が多いサバナクロー生は五感に優れていて、ニオイには特に敏感な者が多い。男所帯で片付けが苦手な寮生もニオイには気を付けている者も多いくらいだ。
そんな集団の中で、レオナから甘い匂いがしたのは珍しいことだった。ラギーがアルバイトに出かける数時間前まではいつもと変わらぬ匂いだったことを思い出し、嗅ぎ慣れない匂いにラギーは首を傾げた。
「花にしては甘ったるいッスね?」
「菓子だとよ。この馬鹿が俺に擦りつけやがった」
がるる、と喉を鳴らすレオナが不機嫌そうに吐き捨てる。
レオナとは歳は離れているものの──レオナが留年しているせいである──お世話係として側にいるラギーとは違い、比較的仲はいい方だ。他の生徒達から狙われる寮長の座も、ラギーが利益としてみている財力も興味がないというのだから、レオナも付き合いやすいのかもしれない。
そんなにはある程度寛容な態度をみせるレオナがに対して、苛立ちを見せるのもまた珍しい姿だった。
「悪気はなかったんですよ! つい習性で!」
詳しく話を聞いてみると、繁忙期に入ったの実家からヘルプの連絡が授業の終わりに入り、手伝いに戻ったのはいいもののドーナツ屋というお菓子を扱う店にありがちな甘い匂いをさせて帰ってきたところにレオナが通りがかり、匂いを取りたいががためにレオナに擦りつけたらしい。よくあるじゃれ合いかと思って好きにさせていたらレオナの匂いよりも甘い匂いの方が勝ってしまい、レオナへ移ってしまったという事だった。
「……それは、災難だったッスねぇ」
スラムのチビでももっとマシな喧嘩をするぞと、ラギーは内心思ったもののそれを口に出すには憚れた。レオナはもちろんのこと、普段は温厚なの機嫌を損ねたら最後に困るのはラギーなのだと身をもって知っているからだ。
レオナもも喧嘩はする癖に、互いに楽しいことには結託してラギーを困らせるのだから世話係を請け負っているラギーはいつも苦労する羽目になる。
「あー、でもドーナツが食べれるならちょっと羨ましいッス」
ラギーはドーナツの味を思い出しながらくん、との匂いを嗅いだ。
甘い匂いが混ざりすぎてわからなかったものの、言われてみれば確かにからは菓子の匂いが漂っている。
甘くて、中はしっとりしていて、噛んだらじゅわりと口の中に広がる油を思い出す。
食べたいな、と何度か思ったことはあるものの裕福とはいえないラギーの懐事情では甘味より優先すべき金策が多く、時々しかドーナツにありつけない。匂いだけで口の中に唾液が溜まるのを感じながら、先ほどまで言い合いしていたレオナとが静かなことに気がつき、ラギーは顔を上げた。
「ラギー」
「ラギー」
二人の揃った自分を呼ぶ声にラギーの肩がびくりと跳ねる。
まるでオモチャを見つけた時のような、肉食動物が遊びながら獲物を狙う時のような、二対の目がそれぞれラギーを見て薄気味悪く笑っている。
「な、なんスか?」
ひくりと口元が引き攣ると同時に、本能が逃げろと叫んでいるのに足が竦んで動けない。
大型肉食動物であるレオナとの前では同じ肉食動物であってもハイエナなんてちっぽけな存在だと感じるのはこういう時だ。
体格差もあり、逃げたところで追いつかれるのは目に見えている。
「そういやお前の好物はドーナツだったっけなぁ、ラギー?」
レオナの長い褐色の腕がラギーの肩を組む。
力強く置かれた手はラギーが逃げないように拘束しているのは明らかで、ヒヤリと冷たい汗がラギーの背中に流れた。
「レオナさん…?!」
「そうかそうか、ラギーの好物はドーナツかぁ」
の大きな手のひらがラギーの腰を掴む。
引き寄せられたラギーの身体はいとも簡単にの身体と密着し、レオナとに挟まれたラギーには既にどこにも逃げ場はない。
二人に染み付いた甘い匂いが香ると同時に、がラギーの額に頭を擦り付けた。
「お前にもちゃーんとお裾分けしてやるよ」
ぐりぐりと擦り付けられる度に香る甘さにくらくらしながらラギーは身を捩るものの、二人の拘束が簡単に解けるはずがなかった。
ようやく手を離して貰えた頃にはラギーにもばっちり匂いは移っていて、満足気に笑う二人に対し、ラギーはどこか落ち着かない。
「どうせなら腹に溜まる方が欲しいッス!」
歳上二人に刃向かうすべのないラギーは用はないとばかりに立ち去ろうとする二人の背中に抗議をした。
ドーナツが好きとはいえ、匂いで腹は膨れない。どうせなら腹が膨れて美味しくて、タダであればラギーに言うことはないのに。
「ん? そこに置いてあるだろう? アレ、お前のな」
が指差した方向へ目を向けると、テーブルの上にはラギーと紙が貼られた大きめの袋が二つ置かれている。袋のは夕焼けの草原なら誰もが知っている有名店で、の実家──つまり、この匂いの元となったお店のロゴが貼られていた。
スラム育ちのラギーが甘いお菓子にありつけるのはめったにないことで、その量の多さに思わず目が奪われる。
一つ、二つ、三つ。ドーナツの数とおおよその金額を頭の中で弾き出し、得した分を勘定してしまうのはもう性分といっていいだろう。
甘い匂いを纏わせながら自身宛の紙袋を両腕に抱え、誰にも奪われないように注意しながら自室へと戻る最中、ふと今更なことに気づく。
「あれ? 俺、なんで匂いつけられたんスか……?」
今はもう見えない二人に言葉を投げかけるも答えが返ってくる筈もなく。
袋からデコレーションされたたっぷりのドーナツを取り出し、身体に似合わず大きな口で頬張りながらご機嫌に尻尾を揺らしているラギーをみた寮生の一人は思った。
「凄ェ可愛がられてるジャン……」
(2021.01.31)