学生服を着ていたのはもう何年も前になる。時の流れとは早いもので酒が飲める歳はとうに過ぎたし、社会人として働き出してそろそろ両手で数える年だ。新人の時のように初々しさも情熱もなければ上司のように責任もない。やりがいのある仕事だとは思っているが、慣れてしまえばなんてことはなく、今は淡々と仕事をこなす毎日である。私生活にしてもそうだ。彼女を作る機会は幾度かあったものの、惹かれるような子と巡り会うことはなかった。いや、仮にいたとしてもは彼女を作ろうとはしなかっただろう。なぜならば、には何年も想い続けた人がいる。


 が間桐雁夜を酒の席に誘ったのは今から一週間前のことだった。雁夜とは学生時代からの付き合いで、彼が家を飛び出した後も定期的に連絡を取っていた数少ない友人がになる。社会人となればお互いの予定を合わせることも一苦労な筈なのだが、適当に指定した日付と時間を雁夜にメールすれば一時間も経たずに彼からメールが届いた。返事の内容は用件を肯定する内容で、男同士のメールに花が咲くことはなく、場所さえ決まってしまえばあとは当日が来るのを待つだけになる。

 雁夜に指定した曜日は金曜日。夜ということもあって店内は大層賑わっていた。明日の休日に浮かれて酒を飲む人が多いらしく、大きな声があちらこちらで聞こえている。予約しておいて良かったと思ったのは、雁夜との待ち合わせの間に手洗いに立った時のことだ。満席なのか、玄関口で待たされている人が何人かいるらしい。この様子だと、予約しておかなければ個室どころか居酒屋を何軒も探し回らなければならなかったかもしれない。が腕時計を覗き込むと、指定した時間が近付いていた。





「あー、もう飲めない!」

 空になったビールジョッキを雁夜は少し乱暴に机に置いた。あれから、時間通りに来た雁夜と飲み始めて既に二時間は経っている。注文した食べ物を摘まみながらではあるが、雁夜が飲むペースは早かった。が二杯に対し、雁夜は既に五杯目を飲んでいる。普段の雁夜ならば酒に飲まれるような飲み方などせず、自分のペースを保ちながら飲んでいるのだが、今日の雁夜は自分のペースを保てていないようだった。もとより雁夜はそれほど酒に強いわけでもない。ともなれば、五杯も飲んだ雁夜は当然の如く酔っていた。顔を赤らめてにこにこと気分が良さそうに笑っている。

「おい、そろそろ止めておけ」

 は雁夜の酔い具合に苦笑いしながら空になったビールジョッキを遠ざけた。空なのだから飲めないことはわかっているのだが、手元にあれば更に注文しようとするからだ。

「いやだ、飲む!」

 遠ざけたジョッキに手を伸ばす雁夜を制止する。すると、不機嫌になった雁夜が不貞腐れた顔をした。

はもうすこし、俺にやさしくするべきだ!」
「俺は十分優しいだろ、この酔っ払い」

 雁夜の額を指先で強く弾く。バチ、と音が鳴るとともに痛そうに顔をしかめた雁夜がまるで小さな子供みたいに机に伏せた。

「いたい…が酷いよ、あおいさーん!」
「…お前、まだ禅城さんが好きだったのか」

 葵さん、葵さんと呟く雁夜には顔をしかめた。雁夜が禅城葵という年上の幼馴染みが好きなのは学生時代から知っていた。あの頃も雁夜は彼女一筋で、一途に彼女を思い続けていた。いつの頃かは忘れたが、彼女が別の男と結婚したと聞いて、さすがの雁夜も諦めると思っていたのに。

「…すきだよ、ずっとすきだよ。…本当にすきなんだよ…葵さん…」

 ぐすぐす泣き出した雁夜は一旦こうなるとなかなか泣き止まない。慰めたところで雁夜が泣き止む訳ではないし、何よりは自分が傷つきたくなかった。なぜなら、の好きな人は目の前で禅城さん恋しと泣いている雁夜だからだ。は、学生時代から目の前の男に恋している。不毛だと言うこともわかっているし、雁夜がノーマルな限りの想いが報われることはない。それこそ諦めようと何度も思ったが、一度募った気持ちが簡単に消えることはなく、雁夜が禅城葵に想いを馳せるのと同じくらいには雁夜が好きだった。

「葵さんは本当にやさしくて、きれいで、笑ってるかおが可愛くて…」

 目を閉じて一途に彼女を思う雁夜の恋は学生時代から何も変わらず、まるで初恋のようだった。いや、雁夜と彼女は幼馴染みらしいから本当に初恋なのかもしれないが、ただひたむきに一人の女性へ想いを向けて、そしてその女性が他の男と結ばれた今でも想うことはには出来ないことだった。は雁夜が好きだったが、雁夜のような綺麗な恋ではない。学生の時はさっさと振られればいいと願っていたし、こうして無防備な姿を晒されるとキスの一つや二つしたくなる。その度には必至で我慢するのだ。雁夜の良い『友達』でいるために。

 いつもの自慢話が終わると、気付くと雁夜は気持ち良さそうに眠っていた。彼女が結婚して諦めるとばかり思っていたのにその期待も裏切られ、彼は報われない恋をし続けている。そうして雁夜に恋するに向かって想いを吐くのだ。好きだ。まだ好きなのだと。

「…バ雁夜め。お前って本当に、酷いヤツ」

 潰れる程に飲みたい気分だった。いい加減に諦めたいという気持ちがないわけでもない。だが、目の前ですやすや眠る雁夜の顔を見ていると、やっぱり好きだという気持ちが溢れてくる。せめて雁夜が禅城葵以外の他の人を、それこそを好いてくれればこんな想いなどせずに済んだのに。

「俺だってずっと、お前のことが好きなのに」

 は雁夜にキスしたくなる衝動を誤魔化すように、グラスに残った酒を勢いよく飲み干した。


(2014.01.05)

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