パリンと音をたてて、グラスが割れる音が部屋に大きく響いた。

 これでもう三度目になるだろうか。男は、前に比べて自身の身体の調子が少しずつ悪くなっていた事に気がついていた。ここ最近、特に酷くなっている身体は、とてもじゃないが万全とは言い難いものになっている。信頼できる医師に身体を見せても、今の医学では治る術はないと言われてしまい、男にはどうすることも出来なかった。少しずつ病が進んでいく様子を身を以て感じる事しかできないのはなんとももどかしいものであり、また、男を見る複数の同情の視線は、痛いほどに突き刺さっていた。

「俺もここまでか……」

 予兆がなかったわけではない。男が見て見ぬふりをして、誤魔化し続けてきただけだ。医者に何度も養生しろと言われたものの、何もしないまま時を過ごすのが我慢ならず、今までと同じように戦場を駆けまわってきたが、それもそろそろ限界らしい。男がどんなに気を付けていても、自覚してしまえばあっという間に身体に不調が表れて、思うように動けないことがしばしばあった。

 目は霞み、物との距離感が上手く掴めない回数ばかりが増えていく。
 とてもではないが、戦場に出られるような身体とは到底いえなかった。

「……そろそろ辞めた方がいいんじゃないか」
「邪魔者扱いすんなよ。まだ、動けてるだろうが」
「馬鹿を言いなさい。私は心配してるんだ」

 やれやれと、呆れた様子の男が、グラスを割った男に手を貸した。
 落としたガラスを踏まないように男を椅子に座らせると、男は自分の目元に手を当てる。

「……安心しろよ。どうせ、明日には全て終わるさ」

 男にとって、明日が最後の仕事だった。戦場に出て槍を振るうわけでも、軍で指揮をとるわけでもなかったが、男が任された最後の仕事だった。いずれ仕事を辞める時が来ることは、治す術のない病にかかった時点で諦めている。病に掛かった人間が、いつまでも戦場と隣り合わせの居場所に居座っていても迷惑にしかならないからだ。しかし、長年居続けたその場所はなんとも離れがたく、必死にしがみついてきたものの、生死を賭ける戦場の中では命取りだということを、男は誰よりも知っていた。男は支えてくれる仲間を信頼していたし、仲間もまた、男を信頼していた。男が望むのならば、仲間はきっと支えてくれたのだろう。
 しかし、いつまでもそれに甘えているわけにはいかないことを、男はきちんと理解していた。

「まだ、視えているんだろう?」
「ああ。なんとかな」
「そうか。……明日、しくじらないようにな」
「しくじるような仕事じゃねぇだろ。死体の確認をするだけなんだ。まさかそれが、最後の仕事になるなんて……思ってはいなかったがな」

 そう言った男の声は、どこか寂しそうだった。




 ぼんやりとした意識の中で、白野は静かに眼を開ける。
 今まで見ていたものが夢だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。ここ最近で近しい存在になった人物を探すと、求めていた人物は、桜がひらひらと舞う校舎の外をじっと眺めている。その人物こそ、白野の夢に出てきた男だった。

「(今のは、の……)」

 以前、凛が教えてくれた事を思い出す。
 マスターとサーヴァントはパスで繋がっている為、お互いの事を夢で見る事がある、と。必ずしも見る訳ではないそうだが、本来ならば決して知ることはなかった筈の、という人間の記憶の一部を覗き見した気分は、決して気持ちのいい物ではない。

 出会った時から傍若無人だったは、なんだかんだ言いつつも、白野をマスターとして守ってくれた。
 頼れる仲間だった筈の凛が敵として現れた時も、ラニというムーンセルで知り合った少女が敵だった時も、いつだって文句は言ってはいたものの、白野を守ってくれたのは確かだった。
 の背中は、既に白野にとって見慣れたものになっている。
 未だに名前しか詳しい事はわかってはいないし、頼りにしていたアンデルセンの言葉からも、わかった事はとても少ない。

――名を残せなかった、負け犬だ。

 アンデルセンは、確かにそう言った。
 今までに出会ったサーヴァントは、どんな形であれ歴史に名を残しているのが当たり前であり、だからこそ、功績を残した彼らは英雄と呼ばれる存在になるのだろう。故に、真名がばれない様にと召喚されたクラス名で呼び合うのが通常の聖杯戦争だと、これも凛から教わった事だったが、は召喚されてすぐに白野に真名であるを告げた。白野だけでなく、凛やラニ、レオや慎二にも。

「……起きるにはまだ早いぞ、ヘボマスター」

 白野の視線に気付いたが、ゆっくりとした動きで白野の方へと振り向いた。
 知り合った頃とは違い、棘のあるような声でなく、ほんの少しの優しさが含まれた声に白野は小さく微笑んだ。

「夢を、みたんだ」
「あ?……悪い夢でも見たのか?」

 の問いかけに、白野は少しだけ考える。
 どんな理由であれ、無断で過去を覗き見したことは決していい気分とは言えない。
 それでも、白野はの過去をみて、少しだけ安堵したのもまた事実だった。

 白野が出会ったサーヴァント達は、歴史に名を残した英雄達のほんの一握りであり、歴史を顧みれば名を残せなかった人間の方が圧倒的に多い。伝説が残るような人間でもなく、文献にも載っておらず、生きていた事すらわからない。白野が月の裏側に落とされなければ、決して出会うことはなかったというサーヴァントが、白野が召喚した信頼するサーヴァントだ。

 「……そうでもなかったよ」

 確かにという人間は、人類が築き上げてきた歴史のどこかには居たのだろう。
 まだまだ白野は彼について知らないことだらけだ。名だけでなく、いつどこで生まれてどのように生きて、命を終えたのか。
 夢を見るまでは、という人間が本当に存在したのかなんて、白野には知りようがなかったのだから。


(2020.08.31修正)
(2015.04.26)

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