男は欲望に忠実だ。だからこれは仕方のないことなんだと、白野は自分に言い聞かせた。白野の目の前には柔らかそうで、それでいて重力に逆らってぷるぷると揺れる大きな胸が惜し気もなく晒されている。アルターエゴの一人であるパッションリップを見るのはこれが初めてではなかったが、いざ対峙した時に、どうしても目が胸へと向いてしまうのは男の悲しい性と言うべきか。もちろん、彼女は敵であることは忘れていないし、ギシリと軋む彼女の巨大な腕を警戒していないわけではない。

『ちょっと二人とも!どこ見てんのよ!』

 白野とがパッションリップをーー正確には彼女の胸を見ていると、通信回線で凛の声がアリーナに響き渡る。慌てて胸から視線を逸らすが、視界に入るソレが気にならないわけがない。今は通信回線だけで済んでいるが、凛とラニが白野の隣にいたならば、言葉だけでなく冷たい視線も浴びていたことだろう。
 
「嬢ちゃん、自分が貧相な胸してるからって僻むんじゃねぇよ」
『ひ、貧相って言うなぁ!』

 凛は決して貧相では、と言おうとした白野は慌てて口をつぐんだ。うっかり口にしてしまえば、生徒会室に戻った時に大変なことになりそうだと思ったからだ。白野は気を取り直してパッションリップへと目を向ける。と凛は回線を通して話を続けていたが、原因となったパッションリップはというとその場から一歩も動くことはなく、きょとんとした顔で白野とを交互に見つめていた。

 パッションリップはBBが作り出したアルターエゴだ。この場に立ち塞がるのは言うまでもなく、白野とが迷宮の奥へと進むのを阻む為の筈なのだが、彼女は襲ってくるでもなく、ただ二人を見ている。

「……あの」

 白野がパッションリップに声を掛けると、彼女は酷く驚いた顔をした。きょろきょろと辺りを見回し、自分に声が掛けられているのだと気付いたパッションリップは次第に頬を赤く染め、何も言うことなく、そして何をするでもなくその場から慌てて姿を消してしまった。と凛の会話もそこで中断され、アリーナは静寂に包まれる。白野もまさか逃亡されるとは思わなかったのだが、「反応が消えました」という桜の言葉が真実のように、迷宮にいるのは白野とだけのようだ。彼女のふくよかな胸に目を奪われたものの、彼女は警戒すべき相手には間違いない。彼女が立ち塞がっていた先は、広々としたアリーナの景色が広がっていた。

「で、何しに来たんだ。あの女は」
「俺もよくわからない」

 白野はの問い掛けに首を横に振ることしか出来なかった。なにせ、白野がパッションリップにしたことと言えば、ただ声を掛けただけである。会話らしい会話もなかったし、なぜ彼女が逃げたのかなど白野が聞きたいくらいだった。避けられる戦闘ならばそれに越したことはないが、BBのようにあらゆる邪魔をしてくるのだろうと白野は思っていただけに拍子抜けである。

 とにかく今は迷宮の奥へ進もうと、一歩足を動かした所で大きな溜息が白野の耳に届いた。この場にいるのは白野との二人だけだ。通信回線は繋がっているが、今のは回線越しの声ではない。白野がついたのでなければ、それは当然の溜息ということになる。

「……なんだよ、その溜息」
「いーや、別に」

 なんでもない、という風に口にしただが、白野はそれが嘘だと気付いていた。がこういう言い方をする時は、白野に不満を持っている時だ。普段から白野にマスターとしての不満を持ってるだが、時折こうして口を閉ざすものだから、白野は薄気味悪く感じて仕方がない。
 
「言いたいことがあるなら言ってくれ」

 言葉にしなければわからないことは沢山ある。白野はに不満を持たれることに慣れてはいたが、不鮮明な不満を持たれることは嫌だった。常日頃から白野への不満をズバズバというにどこか安心していた程だ。不満を持ち、それを言葉にするという事は白野に改善の余地があるからだ。だが、今回のように黙ったままでいられると、白野はに対してどうすればいいのかわからない。

「……なら、言わせてもらうが」

 お互い真剣な目をして見つめあう。白野はの言葉を待つ。何が不満なのか、どうすればいいのか。頭にあるのはそれだけだ。白野はというサーヴァントが嫌いな訳ではない。彼に気に入られたくて媚びる為でもないが、白野が直せることならば従うつもりでいた。白野にも譲れないものはあるが、が不満を口にすることで直せるものならば容易いことだった。白野は自分で未熟なマスターだということは理解しているし、が何かしら白野に不満を持つのは当たり前のことだと受け止めている。は不満を持って白野に接するものの口から出される不満は決して横暴なものではない。だからこそ、白野は彼の一言一句を聞き逃すわけにはいかなかった。

 時間にして僅か数秒。先に視線を逸らしたのはの方だった。その表情はどこか暗く、彼にしては珍しい表情だったと言ってもいい。言いよどむが不安になり、白野が口を開こうとした時だった。

「俺はおっぱいのあるマスターに召喚されたかった」

 はっきりとした口調で漏らされたの不満が白野の耳に届く。だが、言われた不満に白野は信じることができなかった。今、このサーヴァントは何て言った?

 白野も、そして通信回線で聞いている筈の凛達でさえ何も言わずただの発言に呆然としていると、聞こえなかったと勘違いしたが再度口を開いた。

「だから、俺はおっぱいのあるマスターに召喚されたかったんだっつーの!」
「……おっぱいなら俺にもついてる」

 反射的にそう言い返せば『そう言うことじゃないでしょ!』と、回線を通して凛の声が聞こえて白野は発言を誤ったことに気が付いた。ラニの声が聞こえない辺り、無言で責められているような気がしないでもない。そんな白野や周りの声を気にしないは再び大きな溜息を吐いた。

「本当に外れを引いたぜ…お前が男じゃなくて、女だったら少しはやる気が出たろうに」

 その声はしみじみとしていて、本当に残念で仕方がないと言いたげな口ぶりだったが、残念ながらのマスターは白野であるし、白野は正真正銘の男である。の視線が白野の胸へと注がれるが、男の胸が成長するわけがない。の本気の様子に、白野はの不満とやらを身構えていただけに落胆した。

 そんな白野の思いも露知らず、は一人で女性の胸のなんたるかを語り始めている。通信回線の向こう側で時折同意するようなレオの声が聞こえたのは気のせいだと思いたい。それよりも白野が気になったのは、今まで回線越しで幾度か喋っていた凛と、その隣にいる筈のラニの存在だ。席を外したかと思う位に回線の向こう側が静かなのである。

、そのくらいにしておかないと……」

 白野が慌てて話を中断させようとするが、あろうことかは白野に「お前も好きだろ?」と聞いてきた。白野とて男だ。女性の胸が嫌いなはずがない。むしろ大好きだ。もちろん、と素直に答えようとした直前、アリーナに大きな声が響き渡った。

『いい加減にしなさいよ、このエロサーヴァント!』

 凛の言葉と共にポンッと音が鳴るとの頭上に巨大なたらいが現れる。だが、の頭上に止まっていたのはほんの一瞬のことで、重力に沿ってたらいはの頭へ鈍い音を立てて直撃した。

「いっ……てぇ!!」

 頭を抱えて蹲るに追い討ちをかけるように『最低です』と言うラニの冷たい声が回線越しに聞こえたが、の不満とやらに一瞬でも悩まされた白野がに同情することはなかった。


(2013.10.23)

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